公共知としての記録 ―判断の過程と代償を公開する条件―
企業が発信する記録の多くは、成功した結論を整えて並べたものである。本稿はその形式を退け、判断の過程と代償を含む記録を公開する理由を、認識論の側から述べる。観測は常に特定の光の当て方に依存しており、異なる方向からの光を集めるほど推論は精度を増す。記録の公開は、その光を増やす行為である。あわせて、記録が広報へ転落しないための条件を挙げる。
なぜ結論だけでは足りないのか
観測されたものは、常に特定の光の当て方が生んだ写像である。財務数値も、記事も、調査結果も、AIの出力も同じである。それらは事実だが、対象そのものではない。だから、結論だけを渡された人は、その結論がどの光の下で出たのかを知らないまま受け取ることになる。
別の光を当て直すには、どの方向から照らしたかが分かっている必要がある。判断の過程を書くとは、光源の位置を明かすことである。何を見て、何を選び、何を手放したかまで書いてはじめて、次の人は同じ場所に立ってから別の方向へ動ける。
一人の観測者が当てられる光は限られている。人ごとに違う光を集めるほど、影は増え、実体の推論は精密になる。記録を公開するのは、この一点のためである。
広報との分かれ目
公開される記録は美化と選別を免れないのではないか、という反論はその通りである。だからこそ記録には、判断に反対した声と、失敗と、まだ結論の出ていないことを含めなければならない。それを含まない記録は広報であって、記録ではない。
もう一つの条件は、時制を混ぜないことである。すでに在るもの、設計している途中のもの、まだ提供していないもの。この三つを同じ強さで書けば、読み手は実在の度合いを測れなくなる。決まっていないことは、決まっていないと書く。決まったときに、記録として足す。
そして、書いたものが現実の結果によって誤りだと分かったときは、消さずに訂正として残す。訂正の履歴が残っている記録だけが、次に読む人から信用される。
誰の知にするか
記録は、個人の名言集にしない。強い個人の言葉を源泉としつつ、責任を持つ主体として編集する。逆に、原典に由来する概念を自分たちの発明のように書くこともしない。原典に由来するもの、こちらの応用、まだ検証されていない仮説を分けて示す。
この区別は面倒である。しかし、区別を書いておかないと、読み手はどこまでを疑ってよいのか分からない。疑える形で出すことが、開くということである。